2018年5月28日月曜日

mとi

写真、右手前のm、その後ろのi。
猫と暮らし始めた原点です。

手前左はkちゃん。彼については後日、また。


今、考えれば、
保護主は別な人で私はその保護主の「命を救いたい」という「心」を実践した「新しい家族」となります。
10年以上も前の話ですが、今と同様、経済的にはいわゆる、どん底。
新しい家族になることを、なぜ、決意したのか?
その時は「それでいいんだ」、思ったとしか言いようがありません。
要は深い考えは無かったということです。


その保護主さんには数年後、しっかりと話しました。
「貴方の意志」を「私たちが実践した」と。


瀕死の場合も、放っておくと死ぬという場合も、
それを知った人間、実情を見た人間は多くの場合、
「助けたい」と考えます。
でも、
その結果多くの人々は何ができるでしょうか?
かわいそうな動物を助ける社会的な「係」が居ると考えるでしょうか?
そんな「係」はありません。
せいぜい、保健所に連絡するのがいいところです。


しかし、
「誰かに委ねる人」は実に多く、存在します。
「お金だけの協力」「労働だけの協力」「物資だけの協力」これらの組み合わせ、全てを実行する人、様々です。
だが、
動物と暮らすということは「人生の変更」を余儀なくされます。
その大きな威圧感に人々は負けてしまいます。
たとえ、それが限られた数年だと判っていても、


「人生の変更」に戸惑うのです。


mとiを私に委ねた人は、今、果たして、どこまで考えているでしょうか?
その人はさらに、三匹目の猫を私たちに託しました。自分の生活を少しも帰る様子はありません。 他人の事情は判っているようで、実はよくわかっていないのが世間の常でしょう。

その人が生活を変えてまで、猫を救いたいと考えなかったことだけは、
間違いありませんが。


保護が数週間、早ければ...、今でも悔やまれます。
その猫はエイズを発症して私の眼の前で亡くなりました。


私は再度その人に告げました、「これは人災です」。

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